古美術+絵の記録


    
こどものわたしは毎日しごとを抱えていた。
器がうんとつまった水屋箪笥をあけ、こどもながらの精一杯な眼で食卓に並ぶ器を選んでとりあわせていた。お膳立てがしごとだったのだ。(これは確実にわたしの絵の礎であります)
夕食間際の台所の鍋をのぞきこみ、野菜の大きさとか、色あいとか、こどもながらにも感性をびびっと奮いたたせ、献立に合う器を選んで、食べものに挑んでいた。
そんなしごとをこなすうちに、みるみるこころを掴まれたのが漆器で、ある日ふと、漆の肌の変化に気付くのです。漆がだんだん透けてくる。ツヤが増してくる。根来塗はえもいわれぬ朱と黒の滲むような擦れるような肌になってくる。
エッヘン自分が面倒をみて漆を育てたんだ、という錯覚はこどものこころを満たした。
そこから「時間の積層」が放つ美の深みに高揚するようになったと思う。
そんなわけで、ピカピカキラキラツルツルスベスベよりも、手垢を感じるような擦れたシブイものに馴染みを覚えていた。

先日の「青花の会 骨董祭」では、絵と古美術をとりあわせて展覧させていただくという稀な時間を過ごした。大きな時間のうねりを「もの」として生きのび、数えきれぬひとに慈しまれ、いまなお生きて在るもの。時間の波を乗り越えまくり、いつしか「古美術」として、扱われるものたちにはけっこうとてつもないパワーが籠っている。時間の積層がもたらすパワー。
そんな生命力のつよい美術ととりあわせてもらえるなんて、もう大興奮。草友舎の五十嵐真理子さん、ありがとうございます。この稀な機会をぜひ記録したいと思い、写真家の白石和弘さんに撮影いただいた。白石さんが写す光が好きなんです。

これは描き手の妄想でしかないかもしれない。けれども、撮影時、絵が笑っていたのです。古美術と一緒に撮影してもらえることを絵が全身でうれしがる姿を目撃。なんとも至福な妄想に浸る。

描き終わると絵がそれぞれの性格をもって別々の方向に歩いていくのです。
その時にいつも聴こえるのが「生んでくれてありがと、じゃあバイバイ!」
絵が自分から離れていくようすはさみしくてとてもうれしい。